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今日は何の日?~12月19日・日本人初飛行の日~

今日12月19日は、日本における飛行機が初めて飛んだ日、日本人初飛行の日です。

1910(明治43)年のこの日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだったそうです。
アメリカでライト兄弟が初飛行したのが1903年ですから、それから7年後の事です。


なお、実際には5日前の14日に飛行に成功していたが、公式の飛行実施予定日ではなかったことと、飛行距離も目測で約60m程度であったため「滑走の余勢で誤って離陸」と報告され、飛行成功とはみなされなかったとの事です。


☆徳川氏のプロフィール☆
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。
 清水徳川家第8代当主にあたり、陸軍で航空分野を主導した。軍人としての最終階級は陸軍中将。

経歴については以下(WIKIPEDIAより引用)
1884年 - 伯爵徳川篤守の長男として東京府に生まれる。母は小笠原忠幹の娘・登代子。のちに篤守は、経済的な問題から華族の体面を維持できないとして爵位を返上する。
1897年 - 高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
1902年 - 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1903年 - 陸軍士官学校(15期)を卒業して工兵科に属する。
1909年 - 工兵大尉となる。
1910年4月11日 - 飛行機操縦技術を習得するためにフランスへ派遣される。
5月末 - アンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に入学。
8月25日 - アンリ・ファルマン飛行学校ブーイ試験場にて操縦士資格試験に合格。(免許証番号289号。日本人初。)
12月19日 - 帰国後、代々木練兵場で日野熊蔵陸軍歩兵大尉と共に日本国内初の飛行に成功する。
1911年 - 飛行機からの空中写真撮影に成功。
後に、三井清一郎陸軍会計経理規定整理委員長の下に実施された宇垣軍縮によって航空兵科が新設されると、航空兵科に転科する。陸軍航空学校教官、航空兵団長、航空兵団司令官となる。
1928年(昭和3年) - 日本陸軍航空兵分野確立の功労により、華族に列せられて男爵を授爵。後に予備役に編入されるが、召集を受ける。
1940年(昭和15年)4月29日 - 勲一等旭日大綬章を受章する。
1944年(昭和19年)3月28日 - 1945年(昭和20年)9月20日召集解除まで陸軍航空士官学校長。戦後、公職追放となる。


日本における動力航空機による初飛行に徳川 好敏大尉が選ばれたのは、徳川家の血筋でありながら没落していた清水徳川家の徳川好敏氏に”日本初飛行”の栄誉を与えたいという軍および華族らの意向だったとの事です。
江戸幕府終焉以来、質実ともに斜陽であった徳川御三卿の一家の名誉回復の、大きなチャンスであり、陸軍にとっても格好の宣伝材料としてうってつけの人材であったのです。
以降、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられて行ったのです。

その同時代、陸軍航空隊の草創期には、もう一人の巨人がいました。
バロン滋野こと滋野清武氏です。(以下もWIKIPEDIAより引用)
1882年10月6日、男爵滋野清彦の三男として名古屋に生まれた滋野清武氏は、1896年に父を亡くし13歳で襲爵。
父の軍功に応えるべく、学習院を中退して広島陸軍地方幼年学校に入学するが、生来芸術家肌であったために神経衰弱を患って中退。千葉県安房郡館山町上須賀の別荘で遊興したのち、家庭教師だった山田耕筰の勧めで上野の東京音楽学校予科に入学して本科器楽科でコルネットを習得した。
音楽学校で知り合った子爵清岡公張の三女和香子と結婚し、娘・露子をもうけるも結婚2年で和香子死亡。


1910年12月、妻和香子を亡くした後に渡仏。
本来の目的は音楽を勉強することだったが、パリの音楽学校在学中にライト兄弟たちの活躍による飛行機熱に呑み込まれる。
ヴォワザンの飛行学校、次いでジュヴィジーの飛行学校、ドュマゼル・コードロン飛行学校へと転校して操縦術等を学び、1912年1月、フランスで日本人初の万国飛行免状(アエロ・クラブ)第744号を取得する。
1912年、自らが設計し亡き妻の名を冠した飛行機「和香鳥号」と共に帰国。臨時軍用気球研究会の御用掛として、日本陸軍の操縦将校の教官となるが、先の徳川好敏大尉との軋轢もあり(滋野の方が飛行技術も教え方もずっと上だったことが徳川は気に入らなかった)、1914年に再度渡仏してパリ郊外のファルマン飛行学校に入学した。


第一次世界大戦の開戦で、フランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命される(陸軍歩兵大尉飛行隊付き)。
外人部隊第1連隊に入隊後、ポーの飛行学校に編入され、のち追撃隊に所属。エースを集めたコウノトリ飛行大隊の操縦士としてスパッドVIIに搭乗、主に地上支援で活躍したが、それでも6機程度を撃墜し、この戦争で日本人唯一の、そして日本航空史上最初のエース・パイロットとなる。
この戦功が認められ、1915年10月にレジオン・ドヌール勲章とクロワ・ドゥ・ゲール勲章を叙勲した。


大戦後帰国し、空中輸送の必要性を説いて航空事業発展に尽力したが、成果をあげないうちに肺炎と腹膜炎のため死去した。享年42歳。
日本の航空機界の発展に欠かせない人物の早すぎる死でした。


徳川将軍家の末裔の軍人による日本初飛行と、妻を亡くした音楽家の男がフランス外人部隊でエースパイロットとして活躍する。
私の大好きなエピソードです。
なんか、小説にでもなりそうな物語ですね。


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