ヨーキー椛(もみじ)、ドッグダンスするよ!

顔も体も態度もでかいヨーキーの女の子、椛(もみじ)のドッグダンスやお出かけ、さりげない日常の出来事などの記録です。

今日は何の日?~11月10日・忠犬ハチ公の誕生日~

渋谷のランドマークといえば、これ。
近年は外人観光客も訪れるここ、忠犬ハチ公像です。
今日11月10日は、忠犬ハチ公の誕生日です。

ここで忠犬ハチ公こと『ハチ』について。


ハチは1923年(大正12年)11月10日、秋田県北秋田郡二井田村(今の秋田県大館市)大子内の斉藤家で八人兄弟の一頭として誕生しました。
外観は赤毛の秋田犬の純血種でした。
父犬の名は「オオシナイ」、母犬の名は「ゴマ」。


飼い主は、上野英三郎さん。
東京帝国大学農学部で教授を務めていた上野氏は、秋田犬の仔犬を飼いたいと希望し、ハチを購入。
ちなみにハチの価格は30円。
けっこう良いお値段と思います。
ハチは、1924年(大正13年)1月14日、生後2カ月で、米俵に入れられて大館駅を出発。急行列車の荷物車にて20時間の移動後、東京の上野駅に到着したとの事です。
パピーちゃんとしては、大変な移動だったと思います。


上野氏の居宅は、東京府豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字大向834番地(現:渋谷区松濤一丁目付近)にありました。
上野氏はすでに「ジョン」と「エス 」という二頭の犬たちを飼っており、そこにハチが加わったのです。
このうちポインター犬のジョンは、特にハチの面倒見が良かったと言われています。


人懐っこいハチは、玄関先や門の前で主人・上野を必ず見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあったとの事でした。


ハチを飼い始めて1年余りが経った1925年(大正14年)5月21日、上野氏は農学部教授会の後に脳溢血で倒れ、突然死してしまいました。
享年53歳。働き盛りの、早すぎる死です。
ハチは、この後3日間は何も食べませんでした。上野氏の通夜が行われたのは5月25日。その後、ハチは少しずつ元気を取り戻した様でした。


その後、ハチは上野の妻、八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられた後、浅草の高橋千吉宅へと移されます。
しかし、上野を慕い続けるハチは、しばしば散歩中に渋谷へ向かって逃げ出してしまいます。
そのため、ハチは再び渋谷の上野宅へ送り返されます。


渋谷に戻ったハチは近所の畑で走り回り、作物を駄目にしていたため、次に渋谷の隣、上野宅出入りの植木職人で、ハチを幼少時から可愛がっていた小林菊三郎のもとに預けられます。
小林氏の自宅は、豊多摩郡代々幡町大字代々木字富ケ谷(現:渋谷区富ヶ谷)にありました。


ハチが小林宅に移ったのは、上野が死亡してから2年余りが経った1927年(昭和2年)秋のことでしたが、この頃から渋谷駅で、上野が帰宅していた時間にハチが頻繁に目撃されるようになりました。


ハチは小林氏にも可愛がられていたのですが、渋谷駅を訪れては道行く人々を見て、食事のために小林宅に戻るを繰り返していた。
ハチが渋谷駅を訪れる際には、途中の旧上野宅に立ち寄って、窓から中を覗いていたといわれています。


ハチは毎日渋谷駅に来ていたため、白い犬だったが汚れてしまっていました。
また心ない人から付けていた胴輪をよく盗まれていました。犬のグッズが安産のお守りになると信じられていたためです。
そんなハチは、野犬と間違われて、何度捕まっていたそうです。
そのたびに、交番で毎日ハチを見ていた警官に助けられて命拾いしていたそうです。
ハチは、他にも通行人や商売人からしばしば虐待を受けたり、子供のいたずらの対象となったりしていました。


一方、上野を迎えに渋谷駅に通うハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長・斎藤弘吉は1932年(昭和7年)、ハチの事を新聞に寄稿しました。
これは『東京朝日新聞』に、「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心をとらえます。
その後も同様な新聞などの報道が続き、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれ、人々から可愛がられる様になります。


ハチに食べ物をあげる人も増え、その人気から渋谷駅はハチが駅で寝泊りすることを許すようになりました。


可愛がられていたハチですが、1935年(昭和10年)3月8日、渋谷川の稲荷橋付近で亡くなっているのが発見されました。享年11歳でした。


ハチは、渋谷駅での告別式など人間顔負けのお別れ会を経て、上野氏と同じ青山霊園に埋葬されたとの事です。


現在の渋谷の忠犬ハチ公の像は、1948年(昭和23年)の制作。
世界中の人々に愛される存在になっています。

ハチ公口にあるこんなオブジェを配した壁も素敵です。

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