ヨーキー椛(もみじ)、ドッグダンスするよ!

顔も体も態度もでかいヨーキーの女の子、椛(もみじ)のドッグダンスやお出かけ、さりげない日常の出来事などの記録です。

エッセイ・アーカイブ~3.11の記憶『雨粒の力』 その8~

 2011年3月11日に起こった東日本大震災。
 時の流れは早いもので、あれから10年が経ちます。


 震災により亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、かけがえのない人を失った方や被災した方が心穏やかな日々を取り戻すせる事を願います。


 震災の事を忘れないためにも、2012年に書いたエッセイ、『雨粒の力』をブログに載せています。


 前回の続きです。 

 今年(2012年)2月上旬、渋谷の東急東横店で宮城県の物産展が催されました。
 そこで嬉しい驚きがありました。女川のさんまが出ていたのです。
 女川は日本一のさんまが採れる所でした。
 女川の漁港は太平洋に面した湾の奥にあり、港のすぐ後ろに市街が広がっています。港の正面には漁協の施設であるマリンピアがあり、毎年ここで“さんま祭り”が行われていました。


 かつての女川のさんまの特徴はその新鮮さでした。
 水揚げしてからすぐ冷蔵し、トラックで各地に運ぶ。東京に運ばれてもその鮮度は目を見張るものがありました。

大震災の被害が最も大きかった地域のひとつがこの女川でした。
 女川の被害は地形により津波が女川港に集中し、高くて威力のある津波が押し寄せた事によります。

 集中した津波は高さ20m弱におよび、4階建てのビルを飲み込み、土台から引きちぎりました。
 今も撤去できずにいるビルを見ると、どの様な力がかかれば鉄筋コンクリートのビルがこんな状態になるのか想像もつきません。

 女川周辺の医療を一手に引き受ける女川市民病院は女川漁港を望む高台にあり、その駐車場は周りのビルの屋上よりも高く、ちょっとした展望台になっています。
 津波は、病院にも押し寄せ、高台にある病院の一階を浸水させ、駐車場の車を根こそぎ押し流し、眼下の街に落下させたそうです。

(※女川の高台の住宅街も途中まで津波が押し寄せていました。)


 ここが浸水したらどこにいても助からないと実感しました。被災した矢本の診療所からの紹介で女川に通院しているおばあさんと代行バスの中で話をしました。
 電車無くなっちゃって大変だけどがんばって通院すると言っていました。
『腰が痛い時などは娘がどこにでも送ってくれたんだけど、津波で死んじゃった。本当に良い娘だったんだ。私だけ生き残っても仕方ないと思ったけど、今でも悲しくてしょうがないけど・・・、でも娘の分まで頑張って生きないと・・・』そう言って、涙をこらえて、一歩ずつゆっくり歩いて行きました。


 女川には原子力発電所もありましたが、震災後、無事に停止しました。
 女川に行った時に『俺たちは原発を守った。それだけの事だが。』と言っていた老人がいました。息子さんが原発で働いているそうです。

(※女川総合病院:中央の建物が病院です。津波はこの高台の上、病院の一階まで押し寄せました。)

 今回の物産展で売られていたさんまは生ではなく丸干しでした。
『冷凍施設も製氷施設も全部やられた。だから丸干ししか出来ない。でも女川の最高のさんまで作った』と言っていました。
 さっそく買って食べてみましたが、これが実に美味しい。
 さんまの内臓を丁寧に取り除き、絶妙の塩加減で味付けした丸干し。
 いまだかつてこんなに美味しいさんまの丸干しは食べた事はありません。
『子供のころ食べた、懐かしい味がする』と、一緒に食べた母が言っていました。
 冷凍施設など近代設備を全て失ってなお、伝統の技法に磨きをかけて勝負する、その心意気が伝わってくるさんまでした。


 女川港には仮桟橋が設けられていて漁船を受け入れています。マリンピアは無事だった地区に仮施設を作り、再起を図り奮闘中との事でした。

 震災で失ったものを嘆くよりも、今あるものに感謝して生き抜く人たちがいます。
 それを支えて共に歩もうとする人たちがいます。


 彼ら一人一人の力は実に小さい、例えれば一滴の雨粒です。
 雨粒は石の表面でなす術もなく跳ね返されます。


 しかし、その雨粒はそこに確固たる意志があれば、永の年月を経て、巨石を穿ち、千尋の谷を刻みます。


 復興の道のりは例えどんなに長く、険しくとも、雨粒である我々が自らの力を信じ、明日に希望を持って歩み続ければ、きっと被災地は、この国は立ち直ります。


 私も常にそんな一滴の雨粒でありたいと思っています。


(終わり)




『雨粒の力』、最初から読むにはこちら

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