エッセイ・アーカイブ~3.11の記憶『雨粒の力』 その5~
2011年3月11日に起こった東日本大震災。
時の流れは早いもので、あれから10年が経ちます。
震災により亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、かけがえのない人を失った方や被災した方が心穏やかな日々を取り戻すせる事を願います。
震災の事を忘れないためにも、2012年に書いたエッセイ、『雨粒の力』をブログに載せています。
前回の続きです。
旅は続きます。
東松島から石巻へ。
震災で被害を受けたJR仙石線の線路に沿って走る臨時代行バスの旅です。
高城町から仙石線はしばらく海沿いを走ります。
かつての仙石線は、海や運河沿いを走る、眺望に優れた気持ち良い路線でした。
仙台駅から直通でステンレスの現代的な車両がローカルな風景を走る違和感、面白い路線でした。
その仙石線に沿った道を代行バスは走ります。
東名(とうな)から野蒜(のびる)、見渡す限り津波で破壊ざれた家々が広がります。
東名駅では線路が枕木ごと剥がされ横転していました。
野蒜に入ると運河沿いをバスは走ります。運河にも瓦礫が散乱し、自動車が多数運河の水面に突き刺さるように残されています。
野蒜駅の駅舎が無事に残っていて臨時のバス停になっています。
周辺にやや小高くなった場所があり、津波を免れた住宅が寄り添うように立ち並んでいました。残された街から学校に通う子供たち。
ランドセルを背負った小学生が歩く通学路のすぐ横の運河で、自衛隊が行方不明者の捜索をしています。あまりにもシュールな光景です。
東松島市の平野部も海から数キロ離れた田んぼの真ん中に津波による漂流物が散在し、トラクターが横倒しになっています。
平野部の家々が立ち並ぶ区域に目を向けると、人が跨げる位の小さな川や用水路の脇の金属製の柵が無残に引きちぎられていました。
津波の巨大な力は街の隙間を縫って入り込み甚大な被害を生じたと思われます。
東松島市の中心、矢本の駅を過ぎ、石巻市に近づくにつれて町は都会の様相を呈して活気が出てきます。
石巻駅前は代行バスや仙台の直通バス、タクシーでにぎわっていました。しかし、駅前を良く見るとどの建物も一階の壁や窓が破れたり変色したりしています。
ここもまた津波の被害を被った跡が見受けられます。
石巻を見渡す日和山に登ってみました。
かつてここからは、石巻の海岸道路と美しい橋、整然とした市街と工場群が広がっていました。
今は、それが全て無くなっていました。
唯一、河に架かった橋は残されていましたが、後はほとんどの建造物が全壊していました。
膨大な瓦礫の街の中で、目につくのはカーキ色の自衛隊の車両群と民間企業のトラックのみ。
自衛隊員はいても市民の姿は見当たりません。
津波は日和山のふもとの墓地まで押し寄せ、そこで止まっていました。
墓地の中ほどまで墓石が積み重なっています。
そこから山側は何事も無かったように整然としています。
日和山でせき止められた津波は川に向かいました。
津波は、石ノ森博物館があった川の中州の島=通称『マンガッタン島』を飲み込み、日和山の裏側から石巻駅周辺に襲い掛かります。
川沿いの地域での津波は5メートル以上に達し、交通信号機は信号部分まで波をかぶり錆びていました。
これでは、二階に避難しても、電柱によじ登っても助かりません。
津波は、逃げ惑う人々を次々に飲み込んで行きました。
私が立ち寄った石巻駅前の市役所仮庁舎。その掲示板は、無数の小さな張り紙で埋め尽くされていました。
行方不明の親を、妻を、夫を、恋人を、子供を、友人を探す無数の祈りを込めた紙片。
胸が痛みます。
(続く)
(無残に破壊された公衆電話ボックス)
(海から2キロ以上離れたところですが、信号機の上まで津波が来たことが判ります。)
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